言の葉なないろ

伝える言葉の練習です

料理をつくるのはめんどうくさい。くさくさい。

今日もご飯作らなきゃじゃないか!

 

こういう感情が持ち上がるということは、わたしがふだん料理をしていない何よりの証拠。

 

母が2週間、1か月家を空けるときにだけ、わたしは主婦になる。

 

ご飯作らなきゃ

 

と考えるのはけっこう気持ちが波立つ。

 

でも、作り始めるとなんだか面白い。

 

不思議なんだけど。

 

固い野菜が熱で柔らかくなり、フライパンの上で香味が香るさまを体感するのは飽きがこない。

 

何よりも、美味しいと言って食べてくれる、もしくは無言でもすべて平らげてくれる家族がいることが嬉しい。

 

しゃーなし、あしたも作ってやろうか。

 

そんな気分になる。

 

しばらく作っていると、欲も出てくる。

 

素材の味を活かせる料理がしたい。

 

そういう類の料理は、きっといちばん技術がいるもので、それこそ長年母たちが培ってきた経験がものをいうのだろう。

 

いまのところのわたしの調理は、味付けでごまかしている気がする。

 

もっと、穏やかだけれど、ぐっと、おいしい、と思えるようなものを作りたい。

 

これも鍛錬かしら。

 

まだ嫁ぐ予定もないが、未来の家族に、滋養のある食べ物を最低限は振る舞えるよう、これから努力していこう。

 

 

 

 

《おしまい》

薄情だなあ

ひいおばあちゃんが亡くなったのは、高校3年の冬だった。

 

おばあちゃん家まではずいぶん遠い。

 

飛行機と車で、たどり着くのに半日以上かかる。

 

田舎町の山のふもと。

 

もうすぐ受験だからとお葬式にはいかなかった。

 

行きたくなかった。

 

母の話だと、火葬のすぐあと、ちょうど雪がふったらしい。

 

煙突から立ちのぼった灰やけむりは、空へ舞わずに地へおりた。

 

おばあちゃんきっと、ここのままがよかったんだねぇ。

 

 

 

おばあちゃんが亡くなったのは、それから3年後のことだった。

 

イギリスに留学中だったため、お葬式に参列しなかった。

 

母の妹たちは大号泣していたらしい。

 

母は、喪主として、長女として、凛としておばあちゃんを送り出したとおもう。

 

私たちは20年近くおばあちゃんと同居していた。

 

渡英前から、おばあちゃんは長くないと知っていた。

 

覚悟して、出国した。

 

海の向こうで知ったおばあちゃんの訃報は、とても変な感じがした。

 

 

 

ひいおばあちゃんも、おばあちゃんも。

 

どちらの葬儀にも行かなかった。

 

大好きなおばあちゃんたち。

 

10年近く経った今になってこころが痛む。

 

受験だからってなんで行かなかったんだろう。

 

イギリスにいたからって、なんとしてでも帰ってくるべきじゃなかったか。

 

もう遅いのだけれど。

 

ごめんね。おばあちゃん。

 

ごめんね、ごめんね。

 

でもすぐに言葉を変える。

 

申しわけなくって。

 

おばあちゃんありがとう。

 

ありがとう。ありがとう。

 

生まれてきてくれてありがとう。

 

今わたしがいるのは、ひいばあちゃんとおばあちゃんのおかげ。

 

だいすきだよ、ありがとう。

 

 

ほんとうに薄情だなあ。

 

大好きなふたりの最期に会いに行かないなんて。

 

ほんとうは最期なんて会いたくなかったんだなあ。

 

絶対いやだったんだなあ。

 

だって、またきっと、一人で住んでるには広すぎるひいおばあちゃん家に泊まりたいし、おばあちゃんとなんでもなくにこにこ笑いあいたい。

 

だって信じたくない。

 

 

だから、どこか、ほんとに死んじゃったなんて実感がなかった。

 

悲しいより、さみしい。

 

でもきっと、そうやって目を背けてきたから。

 

10年近く経った今日。

 

なんでもないときに、涙がぽろぽろ。

 

なんだこれ。なんだこれ。

 

あぁひいおばあちゃん、おばあちゃん、もう会えないんだねえ。

 

いないんだねぇ。

 

悲しくって。

 

ずいぶん長いことかかってしまったけれど、やっと、受け入れたよ。

 

だから、いまさらだけど。

 

行かなくてごめんねと、たくさんのありがとうを。

 

きっとこの瞬間だって、ふたりは私たちを見守ってる。

 

 

みててね、これからも。

 

ちゃんと生きてくよ。

 

 

 

 

 

 

《おしまい》

 

 

 

 

クレームってどきどきする

クレームを言うのは勇気がいる。

 

傷つけてしまうのではないかと考えたりしてしまう。

 

だが、手元にある商品が、納得いかなかった場合。

 

見るたびにもやもやした気持ちが残ってしまう。

 

時間が、あるいは溶かしてくれるかもしれないけど。

 

 

販売者の返品・返金ポリシーを見てみる。

 

返金はしてないらしい。

 

ただ、気になるところがあれば、些細なことでも教えて欲しい、場合によっては交換を受け付ける、とのことだった。

 

少々高い買いものだったので、ちゃんと納得したい。

 

アメリカから購入したので、やりとりは英語だ。

 

うまく伝わっているかわからないが、連絡してみた。

 

気になっているところははっきりと。

 

でも、言葉を選んで。

 

わたしも、販売者のひとも、気持ちのいいところでの解決策がみつかるといいな。

 

 

 

 

《おしまい》

産みの苦しみ

ご縁あって、2,000字のエッセイを書く機会がありました。

 

2回投稿し、20歳前に行ったアラスカ旅と、祖父のことをお題にしました。

 

アラスカのほうは、楽しくもほろ苦い想い出が詰まっていたので、わりとすぐに2,000字を超えてしまい、削るのが大変でした。

 

祖父のほうは真逆で、文章を考えるのがとても大変でした。

 

あらかじめ、こんなことを書こうか、とA4用紙にアイディアを無造作に並べましたが、パソコンを前にしてもなかなか文が始まりませんでした。

 

机の前を行ったり来たり。

 

ちょっと体操をしてみたり。

 

うーん、うーんと悩みながら少しずつ進めていきました。

 

最終的に出来上がったものは、読んでいただいた人に喜んでいただけたので良かったのですが、なぜこんなに苦労したのだろうと考えてみました。

 

 

アラスカのほうは、すらすら言葉が出てきたんです。

 

というのも、この旅については、今までに幾度となく考えを巡らせていました。

 

感情が大きく揺さぶられる体験を多くしたので、印象にも残りますし、どうしてああいう気持ちになったのか、など何度も考えました。

 

私のなかでの整理が、書く前からだいぶん出来ていたのだとおもいます。

 

だけど、祖父のほうは、祖父に対する自分の感情とか、想いを掘り下げたことがなかったことに気がつきました。

 

書きながら、ああ私はこんなふうに祖父のことを想っているんだな、とあとから気付かされる形となりました。

 

結果として満足いくものが出来上がりましたが、これこそが産みの苦しみか! と知ることができました。

 

たった2,000字の文章ですが、考えに考えて作り上げたときには気持ちがいいものですね。

 

想像していたよりもずっと。

 

 

《おしまい》

 

ことのは。なないろ。ごあいさつ。

ことばというのは、どうしてこうも使う人によって違うんでしょう。

 

どんどん読み進められる文と、詰まってしまう文にはどんな違いがあるのでしょう。

 

ことば は、ありふれていて、世のなかに溢れていて、日々通り過ぎていく。

 

ことばは、人とひとの あいだ を繋ぐものだとおもっています。

 

ことばには、日本語に限らず、意思疎通、コミュニケーションの道具以上のちからがあると思います。

 

文字どおり、生命(いのち)が。

 

自分が毎日使う言葉に、もっと気をつけてみようというのが、このブログ(日記?)を始めたきっかけです。

 

もう30年近く生きていて、慣れ親しんでいるはずなのに。

 

まだまだ使いこなせていないので。

 

これも一生の鍛錬とおもい、さまざまな事柄について、わたしはどう考えているか、どんな感情を抱くのか、綴っていきます。

 

また、最近は本を読むなり、インターネットで検索するなど、情報を取り入れてばかりなので、アウトプットの場としても活用していけたらと。

 

 

過去に何度かブログ挑戦をし、作っただけで満足してきたので…

 

続くかな。

 

 

《おしまい》